久喜市の葬儀会社・葬儀場・火葬場を探す

久喜市の概要

久喜市(くきし)は、埼玉県東部にある市。2010年(平成22年)、旧久喜市、北葛飾郡鷲宮町、栗橋町、南埼玉郡菖蒲町が新設合併し誕生した。

久喜市の葬儀会社・葬儀場・火葬場一覧

  • JA南彩農協葬祭岩槻・春日部・蓮田・宮代・白岡・久喜・菖蒲中央支店

    JA南彩農協葬祭岩槻・春日部・蓮田・宮代・白岡・久喜・菖蒲中央支店
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    所在地
    埼玉県久喜市菖蒲町新堀473
  • 久喜葬祭会館

    久喜葬祭社の自社斎場

    霊安室あり宿泊可能

    準備中
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    所在地
    埼玉県久喜市本町6-14-23
    アクセス
    「久喜駅」よりタクシーで約3分
  • 久喜葬祭社

    100人に100通りのご葬儀を提案いたします

    霊安室あり

    久喜葬祭社
    口コミ評価
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    所在地
    埼玉県久喜市本町6-14-23
    アクセス
    JR宇都宮線東武伊勢崎線(半蔵門線)久喜駅西口下車  タクシー約3分または徒歩約20分
  • 清福寺

    皆様の幸せを祈る がんばっ寺(てらー)

    宿泊可能寺院斎場

    清福寺
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    所在地
    埼玉県久喜市下清久360
    アクセス
    久喜駅よりタクシー約7分
  • 有限会社馬車屋鈴木葬祭

    24H受付

    有限会社馬車屋鈴木葬祭
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    所在地
    埼玉県久喜市鷲宮2丁目9-12
    アクセス
    鷲宮駅(駅から0.6km)
  • 有限会社あまと葬祭

    24H受付

    準備中
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    所在地
    埼玉県久喜市西大輪3丁目3−16
    アクセス
    Jr東鷲宮駅5分
  • さがみ典礼・サイカンホールプリエ久喜

    さがみ典礼の自社斎場

    宿泊可能

    さがみ典礼・サイカンホールプリエ久喜
    口コミ評価
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    所在地
    埼玉県久喜市久喜中央4丁目9番51号
    アクセス
    JR宇都宮線・東武伊勢崎線 久喜駅西口下車 徒歩12分(タクシー7分)
  • さがみ典礼・久喜葬斎センター

    さがみ典礼の自社斎場

    宿泊可能

    準備中
    口コミ評価
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    所在地
    埼玉県久喜市吉羽2-30-3
    アクセス
    東武伊勢崎線 新田駅より徒歩5分

お葬式コラム

久喜の史跡

久喜には縄文時代からの遺跡や墓が点在しており、県の文化財に指定されている文化財・史跡・旧跡などその目で古くからの歴史を感じることができます。
また、文化財の中にはお墓や古墳が数多くあり様々な言い伝えや文献などが残されています。
お墓は故人への想いが宿る場でもあります。ここで、久喜市の文化財となっている代表的なお墓、古墳をご紹介してゆきましょう。

天王山塚(てんのうやまづか)
全長100メートルを超える大型の前方後円墳で、元荒川左岸の栢間の台地上に分布する栢間古墳群の中心をなす古墳です。前方部の高さ約9メートル、後円部の高さは約10メートル、前方部幅約62メートル、後円部径約55メートルを測り、主軸はほぼ東西をさしています。
この古墳は、石室に使われたとみられる角閃石安山岩という石があることから、古墳時代後期(6世紀終わり頃)に造られた大豪族の墓といわれています。

静御前の墓(しずかごぜんのはか)
源義経の内妻であった静御前の墓と伝えられています。
静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に当地で亡くなったと言われています。当地には高柳寺(こうりょうじ)と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。
高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。
当地には静御前の墓が残されましたが、墓に墓標がなかったため享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代であった中川飛騨守忠英により建立されました。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。

足利政氏館跡及び墓(あしかがまさうじやかたあとおよびはか)
館の指定範囲は、東西140メートル・南北250メートルに及び、北・西・南の三方に空堀が残ります。古河公方第2代の政氏は、子息の高基との対立に敗れて永正16(1519)年に久喜へ移り住み、館を寺院として永安山甘棠院と命名し、子(一説には弟)の貞巖昌永を開山としました。政氏の墓は五輪塔で甘棠院境内にあり、「享禄四(1531)年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」と刻まれています。

池田鴨之介の墓(いけだかものすけのはか)
池田鴨之介(鴨之助)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、並木五良平と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之介は慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。

並木五郎平墓(なみきごろべえはか)
並木五郎平(五郎兵衛)は、『新編武藏風土記稿』によれば、池田鴨之介と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また、深廣寺の開基となり、山内の「六角名号塔」の建立に協力し、明暦元年(1655)11月18日に没しました。法名を「梅香院光盛」といいます。
並木家の初代五郎平は、幸手城が関宿城の小笠原氏に攻め落とされた時、身を隠していた幸手城主一色直朝の子輝季を当地「萬屋(並木家)」にて捕まえたという逸話があります。
また、その後子孫は宿名主を務めましたが、あるとき大洪水による飢えから人々を救おうとして、御用米を村民に分け与え、その罰により所払いをうけて小右衛門に移り住んだといわれています。

梅澤太郎右衛門の墓(うめざわたろうえもんのはか)
梅澤氏の祖先は菅原氏とされ、戦国時代には北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名乗りました。 小田原城落城の後は相模国梅沢村に住み、姓を梅沢氏と改めました。その子太郎右衛門の時、慶長5年(1600)に栗橋(粟餅下)に移住し、開墾に従事しました。
元和8年(1622)4月、徳川2代将軍秀忠の日光東照宮社参の際、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなりました。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、命がけでこの橋を守り、災難を救いました。秀忠はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金地に日の丸の軍扇及びお墨付きを与えました。その際に梅沢氏は、名字帯刀を許されたといいます。

寛保治水碑(かんぽうちすいひ)
鷲宮神社の拝殿前にある燈籠型の記念碑です。高さ2.6メートルの石燈籠に「刀禰上流以南修治告成碑」と記し、長文の文字が刻まれています。
寛保2年(1742)8月、利根川が氾濫し、江戸市中にも達して、幕府は諸大名に堤防等の修築を命じました。その中で、羽生、騎西領を含めた上利根川南側の地域を担当した毛利家の工事は、特に困難を極め、人足100万人以上を要しました。その完工記念に建てられた碑で、当時の難工事の様子が詳しく記されています。
なお、文章は江戸時代中頃の代表的な儒学者である服部南郭の撰文です。

ご先祖様への感謝の気持ちを忘れずに

私たちが今、豊かな明るい家庭を営んでいられるということも、ご先祖様がいて、そのおかげなのです。
だからこそ、ご先祖様を感謝するという気持ちを持ち続けることはとても大切なのです。
お墓のひとつにも大切な意味があり、そして感謝の気持ちや語り合う場所として大切な役割を持っているのです。

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